競馬コラム
競走馬は豊かになるのか
目次
- 「1着賞金1000万円」は誰のものなのか
- 競走馬自身が賞金を受け取るわけではない
- 賞金は1着馬だけに支払われるものではない
- 6着以下でもお金が支払われる理由
- 出走すること自体にも価値がある
- 賞金から「進上金」が支払われる
- 騎手は賞金の一部を収入として受け取る
- 年間約1040億円という巨大な賞金経済
- 1頭平均872万円稼ぐ、は本当なのか
- 一方で預託料は月70万円程度
- 「1000万円稼いだ馬」でも黒字とは限らない
- なぜ下級条件の賞金や手当が重要なのか
- 賞金は「強い馬への報酬」だけではない
- 賞金は生産牧場にもつながっている
- 賞金が高くなると馬の価格も上がるのか
- 高額賞金が競馬のレベルを押し上げる仕組み
- それでも「賞金が高い=馬が豊か」ではない
- まとめ|賞金は競馬を続けるためのお金である
「1着賞金1000万円」は誰のものなのか
競馬新聞の出馬表を見ると、レースごとに賞金が記載されている。
1着1000万円。
あるいは重賞なら数千万円。大きなGⅠになれば、1着本賞金が億単位になることも珍しくない。
そこで何となく、「この馬は今日1000万円稼いだ」と考えてしまう。
競馬の世界でも、「獲得賞金○億円の馬」という表現はごく普通に使われる。
だが経済の視点から見ると、話はそれほど単純ではない。
そもそも競走馬自身がお金を受け取るわけではないし、競馬番組に記載されている本賞の全額が、そのまま馬主の手元に残るわけでもない。
その賞金から競馬に携わる人々へお金が流れ、一方では競走馬を維持するために毎月大きな費用が発生している。
つまり「賞金1000万円」という数字は、ゴールではない。むしろ、そこから競馬産業の経済が動き始めるのである。
競走馬自身が賞金を受け取るわけではない
まず最も基本的なところから整理してみよう。
JRAの競走に設定されている本賞は、競走馬ではなく馬主に交付される。
そのため「馬が賞金を稼いだ」というのは、競馬における分かりやすい表現ではあるものの、実際のお金の受取人は馬主である。
考えてみれば当然だろう。
競走馬を購入し、育成し、厩舎へ預け、レースへ送り出す費用を負担しているのは馬主だからだ。
競馬はスポーツであると同時に、馬主にとっては非常に大きなお金が動く活動でもある。
賞金制度には、優秀な競走馬を称えるだけでなく、競走馬を所有してレースへ参加する側に経済的なリターンを用意するという役割もある。
賞金は1着馬だけに支払われるものではない
「賞金」という言葉から、多くの人が最初に想像するのは優勝賞金だろう。
しかしJRAの賞金制度は、1着馬だけを対象にしたものではない。
本賞は1着から5着までの馬の馬主に交付される。
当然ながら金額は着順によって異なり、1着が最も大きい。
それでも、2着、3着、4着、5着にも本賞が設定されていることには大きな意味がある。
競馬は勝者だけでは成立しない。1頭の勝ち馬を生み出すためには、そのレースに出走する多くの競走馬が必要だからである。
6着以下でもお金が支払われる理由
さらに興味深いのは、本賞の対象外となる着順でも、条件によってはお金が交付されることである。
その代表的なものが「出走奨励金」だ。
JRAには、本賞とは別に出走奨励金などの制度が設けられている。
なぜ、勝っていない馬にまでお金を出すのだろうか。
ここに競馬を「産業」として考えるときの重要なポイントがある。
レースを成立させるためには、出走馬が必要だ。
ところが競走馬を一頭所有し続けるには毎月費用がかかる。もし上位数頭以外にはほとんど収入がなく、負担だけが積み上がる構造なら、競走馬を長く所有することはさらに難しくなる。
勝者だけでなく、そのレースを構成する馬にも一定の経済的な支えを用意する。これは競争の公平性とは別に、「レースそのものを成立させ続ける」という経済的な意味を持っている。
出走すること自体にも価値がある
さらにJRAには「特別出走手当」がある。
これは一定の条件のもと、競走に出走した馬の馬主へ交付される手当だ。
ここでも考え方は同じである。
競馬は「勝つこと」だけでできているわけではない。
馬を健康な状態で厩舎に置き、調教を重ね、出走できる状態まで仕上げ、実際に競馬場へ送り出す。その一連の過程には、人手も時間も費用も必要になる。
そして、その馬たちがゲートへ入ることで初めてレースが成立する。
賞金制度を見ていくと、JRAが「勝利への報酬」だけでなく、「競走を成立させるための経済」を考えて制度を組み立てていることが見えてくる。
賞金から「進上金」が支払われる
では、レースで賞金を獲得した後はどうなるのか。
ここで登場するのが「進上金」である。
JRAは進上金について、馬主の預託馬が競走で賞金を取得した際、管理調教師や騎乗騎手など厩舎関係者へ馬主が支払う成功報酬的な金員と説明している。
つまり、馬が活躍したことで生まれた経済的な成果を、馬主だけが受け取るわけではない。
↓
賞金等が発生する
↓
馬主だけでなく厩舎関係者の収入にもつながる
競走馬一頭の活躍が、複数の人間の収入へつながっていく。賞金は、競馬産業の中を流れていくお金なのである。
騎手は賞金の一部を収入として受け取る
騎手の収入を考えても、賞金の重要性がよく分かる。
JRA競馬学校の説明によれば、騎手は基本的に個人事業主で、一般企業の社員のような「給与」があるわけではない。
レースに騎乗した際の騎乗手当、そして騎乗馬が入賞した場合に賞金の一部を受け取ることなどが主な収入となる。
一方、厩舎スタッフは調教師に雇用され、基本給や各種手当などを受け取る。それとは別に、担当馬が入賞した場合には進上金による収入も生じる。
競走馬が一つ勝つ。その結果は単なる「1勝」ではない。その一勝によって、馬を支えてきた人々の経済にも変化が生まれるのである。
年間約1040億円という巨大な賞金経済
一頭、一レースの話から、中央競馬全体へ視点を広げてみよう。
JRAによれば、2025年に馬主へ支払われた賞金等の総額は約1040億円だった。
ここでいう「賞金等」には、本賞だけでなく、出走奨励金や特別出走手当などが含まれる。
1000億円を超えるお金が、競走馬が走ることによって馬主側へ支払われているわけだ。
これは、競走馬を中心に非常に大きな経済圏が成立していることを示している。
1頭平均872万円稼ぐ、は本当なのか
2025年にJRAの競走へ出走した競走馬は1万1923頭。
JRAは、同年の1頭平均の年間収入を約872万円としている。
「それなら競走馬を一頭持てば、平均で年間872万円入ってくるのか」と思うかもしれない。
もちろん、そう単純ではない。
これはあくまで平均値である。
GⅠを勝って億単位の賞金を獲得する馬も含まれていれば、未勝利のまま中央競馬を去る馬も含まれている。
競走馬の世界は、平均値だけでは実態が見えにくい。賞金には非常に大きな偏りがあるからだ。
一方で預託料は月70万円程度
ここで、収入ではなく支出を見てみよう。
競走馬は、所有しているだけで維持費がかかる。
中央競馬で走る馬は美浦または栗東のトレーニング・センターにある厩舎へ預けられ、そこで飼養管理や調教を受ける。
当然、その費用を負担するのは馬主である。
JRAが馬主希望者向けに示している目安では、預託料は一頭につき月70万円程度。
もちろん実際の預託料は厩舎によって異なる。放牧や治療、その他の費用もあり、単純な掛け算だけで馬主の年間負担を算出できるわけではない。
それでも「平均年間収入約872万円」と「預託料月70万円程度」を並べてみると、競走馬所有の経済が決して単純ではないことが見えてくる。
「1000万円稼いだ馬」でも黒字とは限らない
ここまで来ると、「獲得賞金」と「利益」がまったく違う数字であることが分かる。
例えば、年間1000万円規模の賞金等を得た競走馬がいたとする。
数字だけを見れば十分に稼いでいるように思える。
しかし、その馬を所有するまでには購入費がかかっているかもしれない。デビューまでには育成費用も必要になる。現役中には預託料がかかり、賞金を得れば厩舎関係者への進上金も発生する。
競走馬によっては治療や休養が必要になることもある。
だから「生涯獲得賞金3000万円」と聞いても、それだけで馬主が3000万円の利益を得たとは判断できない。
競馬における賞金は「売上高」に近い側面を持ち、そこからさまざまなコストを考えて初めて、所有者側の経済的な収支が見えてくる。
なぜ下級条件の賞金や手当が重要なのか
競馬の賞金というと、どうしてもGⅠに目が向く。
だが、競馬産業を支えているのはGⅠ馬だけではない。
むしろ頭数で見れば、頂点へ到達しない馬の方が圧倒的に多い。
未勝利戦を走る馬もいる。1勝クラスで長く走る馬もいる。2勝クラス、3勝クラスで何度も好走しながら、オープンまで届かない馬もいる。
そうした馬にも毎日の飼料が必要で、厩舎スタッフが世話をし、調教を行い、蹄を管理し、必要に応じて獣医師が診る。
つまり、GⅠ馬でなくても維持費は発生する。
だからこそ、競馬産業全体を考える場合、本当に重要なのは「有馬記念の1着賞金はいくらか」だけではない。
ピラミッドの下から中段にいる多数の競走馬を、どの程度経済的に支えられるか。その設計こそが競馬の厚みを左右するのである。
賞金は「強い馬への報酬」だけではない
ここまで見ると、競馬における賞金には二つの顔があることが分かる。
一つは、競争の結果に対する報酬だ。
強い馬ほど上位へ入り、大きな賞金を獲得する。これはスポーツとして非常に分かりやすい。
もう一つは、競馬という仕組みを維持するための経済的な装置という顔である。
本賞だけでなく、出走奨励金や特別出走手当、さまざまな奨励制度が存在するのはそのためだ。
JRAでは、競走条件などに応じて複数の賞金・手当制度が用意されている。
「勝った馬へいくら払うか」だけではなく、「競馬に参加する馬をどう確保するか」まで含めて考えると、賞金制度の見え方は大きく変わってくる。
賞金は生産牧場にもつながっている
競馬の経済は、競馬場と厩舎だけで完結しているわけではない。
競走馬が生まれる場所――生産牧場にもつながっている。
JRAには「繁殖牝馬所有者賞」という制度がある。
これは良質な競走馬資源を確保するため、優秀な繁殖牝馬の所有を奨励することなどを目的とした制度で、国内で生産された対象馬が所定の成績を収めた場合などに、その母馬の所有者として登録された対象者へ交付される。
ここには競馬産業ならではの時間軸がある。
今日走っている競走馬だけを支えていても、数年後の競馬は成立しない。
次の世代の競走馬を生産する人々が存在し続けなければならない。賞金や奨励制度は、「現在の競馬」だけでなく「未来の競馬」を作るためのお金でもある。
賞金が高くなると馬の価格も上がるのか
ここからは少し視点を変えてみよう。
賞金水準が高い競馬には、競走馬を所有する側にとって大きな魅力がある。
しかし、「賞金が上がれば、その分だけ競走馬の価格も上がる」という単純な比例関係ではない。
競走馬の市場価格は、血統、馬体、性別、育成状況、近親の競走成績、市場の需要など、多くの要素によって決まる。
ただし、競馬で得られるリターンが大きい市場ほど、競走馬を所有する経済的な魅力を支えやすいという関係は考えられる。
馬を買いたい人がいるから、生産する人がいる。
生産された馬に価値が付くから、次の世代への投資が行われる。賞金はレース当日の報酬であると同時に、競走馬市場を支える期待収益の一部でもあるのである。
高額賞金が競馬のレベルを押し上げる仕組み
賞金水準には、もう一つ重要な意味がある。
競走馬へ投資する経済的な動機を支えることだ。
競走馬の生産には長い時間がかかる。
繁殖牝馬を用意し、種牡馬を選び、仔馬が生まれ、育成し、競走馬としてデビューするまでには何年もの時間と多額の費用が必要になる。
しかも、生まれたすべての馬が活躍するわけではない。
それでも生産や所有への投資が続く背景の一つには、競走で成功したときに大きな経済的リターンを得られる可能性がある。
その環境が優秀な繁殖馬や競走馬への投資を促し、育成や調教技術への投資にもつながる。
賞金は単なる「勝った後にもらえるお金」ではない。まだ生まれていない次世代の競走馬へ投資する動機にもなり得るのである。
それでも「賞金が高い=馬が豊か」ではない
ここで、タイトルの問いに戻りたい。
賞金が増えれば、競走馬は豊かになるのだろうか。
経済的な環境という意味では、賞金水準が高いことには大きな意味がある。
競走馬を所有するための費用を回収できる可能性が高まり、馬主が競走馬を所有する動機を支え、生産・育成・調教へお金が流れやすくなる。
しかし、馬自身にとっての「豊かさ」は、それだけでは測れない。
競走馬にとって重要なのは、賞金通帳の残高ではない。
適切な飼料を与えられること。日々適切に管理されること。必要な治療を受けられること。安全性に配慮された環境で調教や競走を行えること。そして競走生活を終えた後の行き先についても考えられること。
賞金が増えれば、それらが自動的に保証されるわけではない。
競馬産業が「豊かになること」と、
競走馬が「豊かに生きること」は、同じではない。
大きな経済力を持つ競馬だからこそ、その資金が馬を取り巻く環境へどう還元されるのかまで考える必要がある。
まとめ|賞金は競馬を続けるためのお金である
競馬の賞金を「勝った馬がもらうお金」とだけ考えていると、その本当の役割は見えてこない。
本賞は馬主へ交付される。そして馬が賞金を獲得すれば、管理調教師や騎手など厩舎関係者への進上金が発生する。
さらにJRAには、本賞以外にも出走奨励金、特別出走手当、各種奨励賞などがある。
そこには明確な理由がある。
競馬は、勝ち馬だけでは成立しないからだ。
一つのGⅠを成立させるまでには、何千頭もの競走馬が存在し、未勝利戦から条件戦まで膨大なレースが行われている。その一頭一頭を、馬主、調教師、騎手、厩舎スタッフ、獣医師、装蹄師、育成牧場、生産牧場など、多くの人々が支えている。
2025年、JRAから馬主へ支払われた賞金等は約1040億円だった。
一方、同年に出走した競走馬の1頭平均年間収入は約872万円。JRAが示す預託料の目安は月70万円程度であり、単純に12か月なら840万円程度になる。
もちろん、この二つの数字だけで馬主の収支を計算することはできない。
むしろ重要なのは、その数字から競走馬所有の経済が見えてくることだ。
賞金は、勝者を称えるためだけのお金ではない。
競走馬を所有し、育て、走らせ、
そして次の競走馬を生み出すためのお金でもある。
だから賞金水準が充実することは、競馬産業にとって大きな意味を持つ。
ただし、それだけで「競走馬が豊かになった」と結論づけることはできない。
馬にとっての豊かさは、獲得賞金ではなく、その経済力が日々の飼養管理や安全性、医療、そして競走生活の前後を含めた環境へどのようにつながっているかによって考えるべきものだからだ。
次に競馬新聞で「1着賞金1000万円」という文字を見たとき、その数字を少し違った目で見てみると面白い。
その1000万円の向こう側には、一頭の競走馬だけではなく、その馬を走らせる多くの人々と、次の世代の競走馬へ続いていく巨大な経済が存在しているのである。
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