名馬シリーズ Vol.7
テイエムオペラオーはなぜ
“世紀末の覇王”と呼ばれたのか
年間無敗の偉業と、包囲網を突破した王者の物語
勝ち続けることは、強いことよりも難しい。
一度頂点に立てば、次のレースでは誰もがその馬を倒そうとする。マークされ、進路を塞がれ、わずかな不利さえ敗北の理由になる。それでも2000年、テイエムオペラオーは一度も負けなかった。
世紀の変わり目に現れた一頭の栗毛馬。華やかな血統の主役として迎えられたわけではない馬が、若き騎手とともに日本競馬の頂点を駆け抜けた。その足跡を、デビューから最後の有馬記念までたどっていく。
目次
- 勝ち続けた馬の名前
- 浦河で生まれた、まだ何者でもない栗毛馬
- 和田竜二との出会い――最初から最後まで
- ダートの未勝利戦から始まった連勝
- 皐月賞――一気に主役へ躍り出た春
- ダービーと菊花賞、届かなかった二つの栄冠
- 1999年の有馬記念が残したもの
- 2000年、無敗の一年が始まる
- 天皇賞・春――長距離王への証明
- 宝塚記念――春を締めくくる三つ目の勝利
- 秋の三冠へ――追われる立場の戦い
- ジャパンカップ――世界を迎え撃つ王者
- 有馬記念――最後の直線に残されたわずかな道
- 年間8戦8勝、その数字が意味するもの
- メイショウドトウという最大のライバル
- 2001年、永遠には続かなかった連勝
- 最後の有馬記念と、王者の引退
- 種牡馬となった覇王、そして別れ
- なぜテイエムオペラオーは今も語られるのか
1.勝ち続けた馬の名前
2000年12月24日、中山競馬場。
第45回有馬記念の最後の直線で、一頭の栗毛馬は苦しい位置にいた。先に抜け出した馬たちが前にいる。進みたい場所には別の馬がいる。圧倒的な支持を集めた一番人気馬でありながら、勝利への道は簡単には開かなかった。
その馬の名は、テイエムオペラオー。
この年、京都記念から始まった連勝はすでに七つに達していた。天皇賞・春、宝塚記念、天皇賞・秋、ジャパンカップ。大きなレースを勝つたびに、次も勝つことを求められた。そして一年最後の有馬記念まで、勝利を期待される立場から逃れることはできなかった。
一度勝てば、強い馬だと認められる。二度勝てば、実力を証明したと評価される。だが勝利が重なっていくと、いつしか「勝つのが当然」と思われるようになる。勝ったことへの驚きは薄れ、負けたときだけが大きな出来事になる。
テイエムオペラオーの2000年は、そんな立場を背負った一年だった。
その歩みを振り返るには、まず「世紀末の覇王」と呼ばれる前の、まだ一頭の若駒にすぎなかった時代へ戻らなければならない。
2.浦河で生まれた、まだ何者でもない栗毛馬
テイエムオペラオーは1996年3月13日、北海道浦河町の杵臼牧場で生まれた。父はオペラハウス、母はワンスウエド。母の父はブラッシンググルームである。
父オペラハウスは欧州で活躍した競走馬だった。テイエムオペラオーの馬名には、馬主の冠名「テイエム」と、父の名の一部、そして「王」を意味する「オー」が組み合わされている。
後年の戦績を知っている私たちには、これ以上ないほど似合う名前に思える。だが、名前が与えられた時点で、その馬が日本競馬の頂点に立つと決まっていたわけではない。
競走馬の価値は、デビュー前からさまざまな形で語られる。血統、馬体、育成時の動き、周囲の期待。しかし、どれほど期待されても、実際にレースで走るまでは答えは出ない。逆に、最初から大きな注目を浴びていなかった馬が、競馬場で評価を覆すこともある。
テイエムオペラオーが特別だったのは、最初から完成された「王者」として登場したことではない。勝利を重ねるにつれ、自らの名前にふさわしい存在へと変わっていったことだ。
やがて栗毛の若駒は栗東の岩元市三厩舎に入り、競走馬としての第一歩を踏み出す。その背中に乗ることになるのは、まだ大舞台で数々の栄光を手にしていたわけではない、一人の若い騎手だった。
3.和田竜二との出会い――最初から最後まで
テイエムオペラオーの物語から、和田竜二騎手を切り離すことはできない。
和田騎手は1996年にデビュー。テイエムオペラオーが初めてレースに出た1998年には、騎手生活3年目だった。後にGⅠを七つ勝つ名馬と、その全26戦でコンビを組むことになる。
長く競馬を見ていると、名馬の背中には、その時代を代表する名手が乗っている印象を持つことがある。経験豊富な騎手が能力を引き出し、数々の大舞台を勝ち抜く。そんな組み合わせは確かに多い。
だが、テイエムオペラオーと和田騎手の場合は少し違った。馬が成長していくのと同時に、騎手も大舞台での経験を重ねていったのである。
皐月賞を勝つ前の和田騎手は、まだGⅠ勝利を経験していなかった。1999年のクラシックで栄光と悔しさを味わい、翌2000年には一年を通じて勝ち続ける重圧に向き合うことになる。
強い馬に乗れば、騎手は楽になるのだろうか。必ずしもそうではない。強い馬ほど、勝利を求められる。相手はその馬を警戒し、進路や位置取りに対する視線も厳しくなる。わずかな判断が、馬の評価だけでなく騎手への評価にもつながる。
テイエムオペラオーの競走生活は、名馬の成長物語であると同時に、若き騎手が王者の手綱を預かり続けた物語でもあった。
4.ダートの未勝利戦から始まった連勝
デビューは1998年8月15日、京都芝1600メートルの新馬戦。結果は2着だった。
初戦で勝利を飾り、そのまま無敗街道を進んだわけではない。次にレースへ姿を見せたのは翌1999年1月、京都ダート1400メートルの未勝利戦だったが、ここでも4着に敗れた。
後の年間無敗の覇王も、最初の二戦は勝てなかったのである。
転機となったのは2月6日の京都ダート1800メートル。三戦目で初勝利を挙げると、そこから一気に競走馬としての輪郭が鮮明になっていく。
続く阪神芝2000メートルのゆきやなぎ賞を勝利。そして3月28日の毎日杯では、重賞初挑戦で勝利を収めた。しかも2着馬タガノブライアンとの差は4馬身。単にクラスを一つ上がったというだけではなく、クラシックへ向けて存在感を示す内容だった。
初勝利はダート1800メートル。続く二勝は芝2000メートル。最初の数戦だけを見ても、テイエムオペラオーの競走生活が一直線に始まったわけではないことが分かる。
しかし毎日杯の勝利によって、状況は変わった。春の大一番へ向かう資格を、栗毛の馬は自分の脚で手に入れたのである。
5.皐月賞――一気に主役へ躍り出た春
1999年4月18日、第59回皐月賞。
テイエムオペラオーは5番人気で出走した。すでに毎日杯を勝っていたとはいえ、クラシックの主役として圧倒的な支持を集めていたわけではなかった。
レースは中山芝2000メートル。テイエムオペラオーは道中、後方寄りの位置から進めた。4コーナーへ向けて進出し、直線では力強く脚を伸ばす。先に抜け出した馬たちを追い、ゴール前でオースミブライトを差し切った。
勝ち時計は2分0秒7。着差はクビ。3着にはナリタトップロードが入り、アドマイヤベガは6着だった。
これがテイエムオペラオーにとって初めてのGⅠ勝利であり、和田騎手にとっても初のGⅠ制覇となった。
皐月賞の勝利は、一頭の競走馬を「クラシック候補」から「クラシックホース」へ変える。春の中山で一度頂点に立てば、次は日本ダービーを期待される。三冠の可能性も語られる。まだ証明していない距離や舞台でさえ、勝つことを求められるようになる。
この時点で、テイエムオペラオーの物語は十分に華やかだった。だが、後年の覇王を形作るうえで本当に重要だったのは、皐月賞を勝った後の時間だったのかもしれない。
栄光の直後から、思うように勝てない季節が始まるのである。
6.ダービーと菊花賞、届かなかった二つの栄冠
皐月賞馬として臨んだ日本ダービー。東京芝2400メートルでテイエムオペラオーは3着に敗れた。勝ったのはアドマイヤベガ。皐月賞では6着だった馬が、競馬の祭典で逆転を果たした。
クラシックは、一度勝てば残りも勝てるほど単純ではない。中山の2000メートルと東京の2400メートルでは、求められる適性もレースの進み方も違う。相手も同じ場所にとどまってはいない。皐月賞で敗れた馬たちが、次の舞台へ向けて力を蓄えてくる。
秋初戦の京都大賞典でも3着。続く菊花賞では、ナリタトップロードの2着に敗れた。勝ち馬との差は0秒1。春に皐月賞で先着した相手が、秋の3000メートルで栄冠をつかんだのである。
アドマイヤベガがダービーを勝ち、ナリタトップロードが菊花賞を勝つ。テイエムオペラオーは皐月賞を勝っていた。1999年の牡馬クラシックは、それぞれに異なる強さを持った三頭が、一冠ずつ分け合う形となった。
さらに12月のステイヤーズステークスでも2着。春の毎日杯から皐月賞へと続いた連勝は、もう遠い出来事のように思えたかもしれない。
しかし、この時期のテイエムオペラオーは大きく崩れていたわけではない。ダービー3着、京都大賞典3着、菊花賞2着、ステイヤーズステークス2着。勝利には届かなくても、異なる距離で上位争いを続けていた。
「勝てない」と「弱い」は同じではない。その違いを、後の一年が証明することになる。
7.1999年の有馬記念が残したもの
1999年の締めくくりは有馬記念だった。
この年の有馬記念には、グラスワンダー、スペシャルウィークをはじめとする実績馬が集まった。三歳の皐月賞馬にとって、同世代のクラシックとは異なる厳しさを持つ舞台である。
勝ったのはグラスワンダー。スペシャルウィークが2着に入り、テイエムオペラオーは3着だった。上位二頭が際どい決着を演じた、その後ろに栗毛の三歳馬がいた。
勝てなかった。しかし、古馬の一線級を相手に3着まで走った事実は、翌年への期待を残すには十分だった。皐月賞を勝っただけの早熟な馬ではない。中長距離の大舞台でも戦えることを示したのである。
1999年の成績は10戦4勝。毎日杯と皐月賞を制しながら、その後は勝利を挙げられなかった。数字だけを並べれば、春に輝き、夏を越えてから足踏みした一年に見える。
だが、その足踏みの間に、ダービーの2400メートル、菊花賞の3000メートル、ステイヤーズステークスの3600メートル、有馬記念の2500メートルを経験していた。相手も舞台も変わるなかで、競走馬としての引き出しを増やしていたとも考えられる。
翌2000年、テイエムオペラオーは再び勝ち始める。そして今度は、年末まで一度も勝利を手放さなかった。
8.2000年、無敗の一年が始まる
2000年2月20日、京都記念。
テイエムオペラオーは前年の菊花賞馬ナリタトップロードを退け、久々の勝利を挙げた。着差はわずかだったが、年明け初戦を勝ち切った意味は大きかった。前年、何度も上位争いをしながら勝ち切れなかった馬が、再び勝者として戻ってきたのである。
続く阪神大賞典では、芝3000メートルでラスカルスズカを下した。春の天皇賞を目指す馬にとって重要な前哨戦であり、長距離への対応を改めて示した一戦だった。
京都記念、阪神大賞典。二つのGⅡを連勝したことで、春の天皇賞へ向けた評価は高まっていく。
だが、この段階で「年間無敗」を予想できた人がどれほどいただろうか。競馬では一つの勝利を得るだけでも難しい。まして、相手や距離が変わり、季節が移り、馬の状態も変化していく一年を通じて勝ち続けることは、別次元の難しさを持つ。
この年のテイエムオペラオーは、春の天皇賞を前に、まだ二つ勝っただけだった。後に歴史となる連勝は、静かに始まっていた。
9.天皇賞・春――長距離王への証明
4月30日、京都芝3200メートル。天皇賞・春が行われた。
この舞台で問われるのは、単純な瞬発力だけではない。長い距離を走りながら力を温存し、勝負どころで動き、最後まで脚を使う。道中のわずかな力みや位置取りが、最後の直線で大きな差となって表れることもある。
前年の菊花賞でナリタトップロードに敗れ、ステイヤーズステークスでも2着だったテイエムオペラオーにとって、長距離GⅠの勝利は重要な意味を持っていた。
結果は1着。2着ラスカルスズカ、3着ナリタトップロードを退け、皐月賞以来となるGⅠ勝利を手にした。和田騎手とのコンビで、クラシックの2000メートルだけでなく、古馬の3200メートルでも頂点に立ったのである。
ここで見えてきたのは、テイエムオペラオーの対応力だった。2000メートルで勝ち、3000メートルの前哨戦で勝ち、3200メートルの本番も勝つ。距離が延びても、相手が強くなっても、結果を出すことができる。
だが春の天皇賞を勝った時点でも、まだ一年の前半にすぎない。覇王と呼ばれるための戦いは、ここからさらに厳しさを増していった。
10.宝塚記念――春を締めくくる三つ目の勝利
6月25日、宝塚記念。
天皇賞・春の3200メートルから、今度は阪神芝2200メートルへ。距離もレースの性質も変わる。春の長距離王になっただけでは、宝塚記念の勝利まで保証されるわけではない。
ここでテイエムオペラオーは、メイショウドトウを退けて勝利した。春のGⅠを二つ制覇。京都記念から数えれば、年明けから四連勝となった。
そして、この宝塚記念は後の物語を考えるうえでも重要な一戦だった。2着のメイショウドトウが、ここからテイエムオペラオーの最大のライバルとして存在感を強めていくからである。
名馬には、しばしばその強さを引き出す相手がいる。勝ち馬の記録だけを眺めていると、2着馬の名前は脇役のように見えるかもしれない。しかし、何度も同じ相手と競り合い、毎回勝たなければならない立場に置かれることは、決して簡単ではない。
テイエムオペラオーが一年を通じて強さを証明できた背景には、最後までその背中を追い続けたメイショウドトウの存在があった。
11.秋の三冠へ――追われる立場の戦い
秋初戦の京都大賞典も勝利。2000年の連勝は五つに伸びた。
ここから待っていたのは、天皇賞・秋、ジャパンカップ、有馬記念という大舞台だった。三つのGⅠは、それぞれ異なる距離と競馬場で行われる。東京芝2000メートル、東京芝2400メートル、中山芝2500メートル。ひとくくりに「中距離から長距離」と言っても、勝ち方まで同じでよいわけではない。
天皇賞・秋では、再びメイショウドトウが2着に入った。テイエムオペラオーは年内六連勝、GⅠ三勝目。春の天皇賞と秋の天皇賞を同じ年に制するという大きな実績も加わった。
勝利を重ねるほど、次のレースは難しくなる。相手陣営は王者を意識する。騎手はどの位置にいるのか、どのタイミングで動くのか、どこへ進路を取るのか。テイエムオペラオーが動けば、周囲の馬もそれに反応する。
しかも、王者には「今日は展開が向かなかった」という説明だけでは済まされない厳しさがある。展開が向かなくても勝つことを求められる。距離が変わっても勝つことを求められる。相手が対策を練ってきても、その上を行くことを求められる。
テイエムオペラオーの2000年は、まさにその繰り返しだった。
12.ジャパンカップ――世界を迎え撃つ王者
11月26日、ジャパンカップ。
東京芝2400メートルは、テイエムオペラオーが前年の日本ダービーで3着に敗れた舞台だった。今度は古馬の王者として、国内外の強豪を迎え撃つ立場にある。
ここでも結果は変わらなかった。テイエムオペラオーが勝ち、メイショウドトウが2着。前年のダービーでは届かなかった東京2400メートルの大舞台で、今度は先頭でゴールを駆け抜けた。
天皇賞・秋に続くGⅠ連勝。春の天皇賞、宝塚記念を合わせれば、年内GⅠ四勝目となった。京都記念からの連勝は七つ。残るは年末の有馬記念だけである。
ここまで勝ってきた馬が最後の一戦で敗れたとしても、十分に歴史的な一年だったことに変わりはない。だが、競馬ファンが見たかったのは「惜しくも年間無敗を逃した王者」ではなかった。
八戦目も勝つのか。春から秋へ、そして冬まで、すべてのレースで先頭に立ち続けるのか。期待が大きくなるほど、その期待は王者にとって重いものになっていった。
そして、物語は中山の最後の直線へ向かう。
13.有馬記念――最後の直線に残されたわずかな道
2000年12月24日。中山競馬場に、テイエムオペラオーの一年を締めくくる舞台が用意された。
有馬記念、芝2500メートル。
一年間、負けていない馬。天皇賞を春秋連覇し、宝塚記念とジャパンカップも勝った馬。相手にとって、倒すべき存在は明確だった。
レースが進むにつれ、テイエムオペラオーは馬群の中で厳しい位置に置かれた。最後の直線に向いても、前が簡単には開かない。先に抜け出していく馬たちを追いたくても、思うように加速できる進路がない。
その状況を、後に「包囲網」という言葉で語るファンは多い。ただし、他馬の騎手たちが事前に示し合わせていたと断定できるわけではない。映像から確かに分かるのは、王者が馬群の中で進路を探し、勝負どころで容易には抜け出せなかったということだ。
それでも、終わらなかった。
わずかに生まれた進路へ馬体を向けると、テイエムオペラオーは残された距離で一気に脚を伸ばした。先に抜け出したメイショウドトウへ迫り、ゴール前で差し切る。着差はハナ。勝ち時計は2分34秒1だった。
大きく突き放した勝利ではない。直線の入口から余裕を持って先頭に立ったわけでもない。最後の最後まで結果が分からない、わずかな差の決着だった。
だからこそ、この有馬記念は特別な意味を持つ。
一年を通じて勝ち続けた馬が、最後の一戦で初めて負けてもおかしくない状況に追い込まれた。それでも、勝った。誰もがその馬を意識する舞台で、誰もが勝利を期待する重圧の中で、最後の一歩まで勝利を諦めなかった。
「強い馬が順当に勝った」という一文では、とても収まらないレースだった。
勝ち続けた一年の最後に、
王者は最も王者らしい勝ち方を見せた。
14.年間8戦8勝、その数字が意味するもの
2000年のテイエムオペラオーは、8戦8勝。GⅠ五勝、GⅡ三勝。出走したすべてのレースで先頭に立った。
| 日付 | レース | 着順 |
|---|---|---|
| 2月20日 | 京都記念 GⅡ | 1着 |
| 3月19日 | 阪神大賞典 GⅡ | 1着 |
| 4月30日 | 天皇賞・春 GⅠ | 1着 |
| 6月25日 | 宝塚記念 GⅠ | 1着 |
| 10月8日 | 京都大賞典 GⅡ | 1着 |
| 10月29日 | 天皇賞・秋 GⅠ | 1着 |
| 11月26日 | ジャパンカップ GⅠ | 1着 |
| 12月24日 | 有馬記念 GⅠ | 1着 |
この記録の重みは、単に「8」という数字だけでは測れない。2200メートル、3000メートル、3200メートル、2400メートル、2000メートル、2500メートル。さまざまな距離で、異なる相手と、季節をまたいで勝ち続けた。
もちろん、各レースの勝ち方がすべて圧勝だったわけではない。着差の小さいレースもあった。展開や位置取りに苦しむ場面もあった。しかし、着差が小さいことと、勝ち切る能力が小さいことは同じではない。
むしろ、さまざまな条件で僅差の勝負をものにできたことが、テイエムオペラオーの強さを特徴づけている。圧倒的な末脚で毎回突き放す馬ではなく、相手がどれだけ迫っても、最後には自分が先頭にいる馬だった。
この年、テイエムオペラオーは年度代表馬に選出された。世紀末の日本競馬を象徴する存在になったのである。
15.メイショウドトウという最大のライバル
テイエムオペラオーの2000年を語るとき、メイショウドトウの名前は欠かせない。
宝塚記念、天皇賞・秋、ジャパンカップ、有馬記念。2000年のGⅠで、メイショウドトウは何度もテイエムオペラオーの2着となった。翌2001年の天皇賞・春でも、二頭は再び1着と2着を分け合う。
同じ相手に何度も敗れることは、見る側にはもどかしく映る。しかし、それは裏を返せば、何度も王者に迫るだけの能力があったということでもある。強い馬が集まるGⅠで、繰り返し上位に来ること自体が容易ではない。
メイショウドトウは、ただ王者の後ろを走っていた馬ではない。王者に最も近い場所まで迫り続けた馬だった。テイエムオペラオーの連勝を見守るファンにとって、メイショウドトウの存在は「次こそ逆転があるのではないか」という緊張を生み続けた。
そして2001年の宝塚記念で、その関係はついに変わる。長く2着に甘んじてきたメイショウドトウが、テイエムオペラオーを破ってGⅠ初制覇を果たしたのである。
王者の強さを語るには、王者を追い続けた馬の強さも語らなければならない。テイエムオペラオーとメイショウドトウの関係は、そのことを教えてくれる。
16.2001年、永遠には続かなかった連勝
2001年。年間無敗を達成したテイエムオペラオーにも、新しい一年が始まった。
しかし、前年と同じ時間が繰り返されることはなかった。初戦の産経大阪杯で4着。2000年2月の京都記念から続いていた連勝は、ここで止まった。
連勝が止まると、それまでの強さが突然消えてしまったように語られることがある。だが、一度負けたからといって、それまでの勝利が失われるわけではない。馬の能力も、ひとつの着順だけで決まるものではない。
実際、テイエムオペラオーは次走の天皇賞・春を勝利した。前年に続く連覇であり、生涯七つ目のGⅠ勝利だった。2着はメイショウドトウ。二頭の関係は、まだ続いていた。
ところが6月の宝塚記念では、メイショウドトウがついに先着する。テイエムオペラオーは2着。前年の宝塚記念とは、勝者と敗者が入れ替わった。
秋の京都大賞典では再び勝利を挙げたが、天皇賞・秋はアグネスデジタルの2着、ジャパンカップはジャングルポケットの2着。前年なら勝ち切っていたような大舞台で、今度は別の馬が先頭に立つようになった。
王者が弱くなった、と一言で片づけることはできない。競馬では、王者が年齢を重ねる一方で、ライバルも成長し、新しい世代も現れる。2001年は、テイエムオペラオーの物語に新たな主役たちが加わった年でもあった。
17.最後の有馬記念と、王者の引退
2001年12月23日。テイエムオペラオーは、二年続けて有馬記念の舞台に立った。
一年前の有馬記念は、年間無敗を完成させた伝説の一戦だった。馬群を抜け、最後にメイショウドトウを差し切った姿は、多くのファンの記憶に残っていた。
しかし、最後の有馬記念は同じ結末にはならなかった。勝ったのはマンハッタンカフェ。テイエムオペラオーは5着で競走生活を終えた。
引退レースを勝利で飾る名馬もいる。最後の直線で再び先頭に立ち、観客の歓声の中でターフを去る物語は美しい。だが、すべての名馬がその結末を迎えるわけではない。
テイエムオペラオーの最後は5着だった。それでも、2000年の8戦8勝が消えることはない。皐月賞、天皇賞・春、宝塚記念、天皇賞・秋、ジャパンカップ、有馬記念で見せた強さが、最後の着順によって小さくなることもない。
通算26戦14勝。GⅠ七勝。2着六回、3着三回。生涯を通じて、上位争いを繰り返した競走馬だった。
そして、デビューから最後の有馬記念まで、その背中には和田竜二騎手がいた。若き騎手と栗毛の馬が、ともに駆け抜けた四年間。その競走生活は、ここで幕を閉じたのである。
18.種牡馬となった覇王、そして別れ
現役引退後、テイエムオペラオーは種牡馬となった。競走馬として残した実績は、誰もが認める大きなものだった。しかし、種牡馬として同じようにGⅠ勝ち馬を次々と送り出すことはできなかった。
競走能力と繁殖能力は、必ずしも同じ結果にはならない。競走馬としての強さが、そのまま産駒の成績へ移るとは限らないのである。自身が歴史的な名馬であればあるほど、次の世代にも大きな期待が寄せられる。その期待の高さもまた、名馬が引退後に背負うものなのかもしれない。
2018年5月17日、テイエムオペラオーは22歳でこの世を去った。
競馬場を駆け抜けた日々から長い時間が過ぎても、その名は消えなかった。2000年の有馬記念は繰り返し映像で振り返られ、年間無敗の記録は歴代の名馬を語る場面で取り上げられ続けた。
そして和田竜二騎手にとっても、テイエムオペラオーは特別な存在であり続けた。1999年の皐月賞から2001年の天皇賞・春まで、テイエムオペラオーとのコンビでGⅠ七勝。その後、和田騎手が次にJRAのGⅠを勝ったのは、2018年の宝塚記念だった。騎乗馬はミッキーロケット。長い時間を経て手にした大舞台での勝利だった。
名馬が残すものは、血統や記録だけではない。一緒に戦った人の人生にも、その存在は深く刻まれていく。
19.なぜテイエムオペラオーは今も語られるのか
名馬の強さを表す方法はいくつもある。
どれほど速い時計で走ったのか。どれほど大きな着差で勝ったのか。何度GⅠを制したのか。どのような相手を倒したのか。記録を並べれば、さまざまな名馬の個性が見えてくる。
テイエムオペラオーの個性は、そのどれか一つだけでは表せない。
1999年の皐月賞で初めてGⅠを勝ち、その後は何度も惜敗した。ダービーではアドマイヤベガに敗れ、菊花賞ではナリタトップロードに敗れ、有馬記念ではグラスワンダーとスペシャルウィークに先着を許した。
だからこそ、2000年の8戦8勝は際立つ。前年に味わった悔しさを経て、古馬になった一年で一度も負けなかった。春も秋も、京都も阪神も東京も中山も、距離が変わっても相手が変わっても、勝ち続けた。
そして最後の有馬記念。あの一戦がなければ、年間無敗という記録は残っていても、「世紀末の覇王」という呼び名から受ける印象は少し違っていたかもしれない。
あの日のテイエムオペラオーは、すべてが思いどおりに進んだわけではなかった。進路を探し、前を追い、残された距離で勝負を決めなければならなかった。それでも最後には、ハナ差だけ前に出た。
強さとは、いつも余裕を持って勝つことなのだろうか。あるいは、苦しい状況でも結果を変えないことなのだろうか。
テイエムオペラオーの競走生活を振り返ると、その問いが浮かんでくる。
彼は無敗でデビューしたわけではない。三冠馬になったわけでもない。引退レースを勝利で飾ったわけでもない。けれど、2000年という一年に限れば、誰も彼を負かすことができなかった。
和田竜二騎手を背に、メイショウドトウをはじめとするライバルたちと戦い、最後まで勝利を求められ続けた栗毛の王者。
勝ち続けたから、覇王になった。
だが、勝つことが難しいと知っていたからこそ、
その八つの勝利は今も輝いている。
時代が変わり、新しい名馬が生まれ、競馬の記録が塗り替えられても、あの一年は日本競馬史の中に残り続ける。
テイエムオペラオー。世紀末を駆け抜けた覇王の名は、これからも語り継がれていく。
主な参照資料
・JRA「競馬の殿堂 テイエムオペラオー」
https://www.jra.go.jp/gallery/dendo/horse27/
・JRA「3分でわかった気になる名馬 テイエムオペラオー」
https://www.jra.go.jp/gallery/3minmeiba/horse5/
・JBISサーチ「テイエムオペラオー 競走成績」
https://www.jbis.or.jp/horse/0000302080/record/








